くあずのはなし(遙か6:九梓)
遙か6 九梓
お世話になった方に差し上げた話なのですが、公開していいと言っていただき、差し上げてから1ヶ月経ったのでアップさせていただきます~! ほんとうにありがとうございました!
九梓幸せしかないな~と書いていて楽しかったです。シリアスな話と迷ったのですが、シリアスは解釈が違ったら苦しいものになってしまって差し上げ物の意味がないとやめたので、そちらもいずれ書きたいな~。
後日pixivにも転載する予定ですので見やすい方でどうぞ~!
無印大団円後ロンドとは別時空の九梓です
くあずのはなし
ハイカラヤの一角には、萩尾九段を囲んで、駒野千代、有馬一、片霧秋兵がいた。
「それじゃあ、九段。がんばって」
「う、うむ」
どんと千代に背を押されて、緊張した面持ちの九段がハイカラヤを出ていく。
それをしばし見送ってから、千代は秋兵たちを振り返った。
「では、行きましょうか」
「はい。お供しますよ、白龍の神子様。ああ、特別な使命をわかちあうこの記念に、千代くんと呼んでもよろしいでしょうか」
「駒野さんでお願いします」
どさくさに紛れて、秋兵が千代との距離を縮めようとするものの、あっさり千代に却下される。いつも通りの光景だ。
「俺にはさっぱり話が見えないのだが」ひとり、話についていけていない有馬は首を捻っていた。
秋兵とハイカラヤに来たら、千代と九段がいて、話をしている間に、なぜかこれから予定されている九段と高塚梓のデートを尾行することになっていた。全く意味がわからない。
「有馬、行きますよ!」
誰にも説明してもらえないまま、有馬は、楽しそうな秋兵に腕を引かれてハイカラヤを連れ出されたのだった。
***
待ち合わせの浅草に着くと、九段はそわそわと梓を待った。いつも多くの人でにぎわう六区界隈は、今日も盛況だ。九段は、行き交う人々の中に梓の姿を探したり、ふと自分の身なりを顧みたり、今日いち日について思いを馳せたりと落ち着かずにいた。
なにしろ、今日のデートは、いつも以上に気合いが入っている。梓にもっと好きになってもらうための作戦を、千代とともに考えたのだ。その相談をしていたら有馬と秋兵が現われて、秋兵もたくさん知恵を貸してくれた。
それを実行して成功させるのだ――。
「九段さん?」
「っ」
決意を新たにしていたところ、不意に窺うように声をかけられて、九段はびくりと肩を震わせ振り返った。
「よかった。九段さんじゃないかとどきどきしちゃいました」
そこには、待ち人の梓が、大きな目をさらに大きく丸くして立っていた。
最初の作戦は成功だ。意外性にときめくわ――と、千代が言い、秋兵が頷いた、この第一の作戦により、九段は今、梓の視線を一身に集めている。それもそのはず、九段はいつもの着物ではなく、千代が選んでくれた藍色の「しっく」な着物を着ていた。本当は洋装がいいと言われたのだが、個人的に馴染まないので、いつもと違う色の着物でということに落ち着いた。
「うむ。今日はぬしと『でえと』の日だから、おしゃれをしてみたぞ。おかしいか?」
千代は太鼓判を押してくれたものの、慣れない装いに不安は大きい。共に歩きたくないと言われたらどうしようと恐れながら、九段は尋ねる。
「いえ、おかしくありませんよ。ただ……なんだか見慣れなくて驚いてしまって」
梓は微笑んで見せてから、少し目を伏せて、落ち着きなく左右に動かした。そのどこか九段を見ようとしないような様に、梓は優しいから、本当は似合っていないのに、そう言えないのだろうかと不安になる。もしくは、梓の好みではなかったのだろうか。
(む、むう……失敗だったか……?)
初見の反応はよかったように思うが、梓から「かっこいい」という言葉は聞けなかった。これは駄目だったのだろうかと、九段は消沈する。
「あの、九段さん? 今日はどうしましょうか? 浅草で行きたいお店があるんですか?」
「そ、そうだ。今日は我に任せてほしい」
梓に聞かれ、落ち込んでいる場合ではないと、九段は気を取り直した。せっかく千代たちと色々考えたのだ。ぼんやりしている暇はない。
「こちらだ」
九段は梓を連れて、六区の奥へと進んだ。向かった先は、活動写真館だ。活動写真は、秋兵が言うには、今、最も人気のある娯楽のひとつで、婦人にも好評だそうだ。浅草で活動写真を観て、カフェーで一休みするのが、流行に敏感なモボやモガの定番になっているらしい。きっと、梓も楽しめるだろうと、秋兵におすすめされた場所だ。
「わ、活動写真ですね」
梓は、看板を見て、顔を輝かせた。
「そうだ。ぬしは観たことがあるか?」
「元の世界では。でも、この時代ではまだ観ていないので、行ってみたいなって思ってました」
「そうか。それならばよかった。我もはじめてなのだ。共に楽しもう」
梓が喜んでくれて、九段も嬉しくなる。思わずにこにこと笑うと、梓もますます笑ってくれた。
「おそろいですね」
「そうだな」
梓とおそろいは嬉しい。気分が上向いて、九段は意気揚々と館内に入った。
はじめて観る活動写真は興味深く、九段は夢中になって観たため、あっという間だった。外に出ると、明るい陽射しが眩しく感じられる。それに目を細めながら、梓を振り返った。
「ふう。なかなか面白いものであったな。あのように姿を記録し映し出すことができるとは。梓はどうであったか? 楽しかったか?」
「はい。楽しかったです」
梓が頷いてくれて、ほっとする。九段ばかりが楽しんでも仕方ない。梓といっしょに楽しみたい。
「ぬしの世界の活動も、あのようなものなのか?」
「そうですね……。元の世界のものは、白黒ではなくカラー――色が本当の世界と同じようについていて、役者さん本人の声や音も同時に流れます」
「ほう。それはまるで夢をみなで観ているようだな」
九段は興味をそそられた。夢が画面に映し出されるようなものなのだろうかと想像する。
「それから、みんな、ポップコーンを食べます」
梓はなぜか楽しげだ。九段はポップコーンなるものを知らないので、楽しい食べ物なのだろうかと首を傾げた。
「ぽっぷこおん?」
「とうもこしを炒って塩をふったお菓子です。それを食べながら観るんです」
「なんと! お菓子を食べながら……!」
それはすばらしい。現代でも実践してしかるべきだ――と熱い気持ちが迸ったが、今日はお菓子好きを控えるようにと千代に言われていることをはっと思い出し、九段はぐっと我慢した。今日は、落ち着いた年上のふるまいをするのだ。
「いや、そうか。ぬしの世界の者たちも菓子が好きなのだな」
「え……あ、ああ、そうですね」
無理矢理気持ちを落ち着かせて言うと、梓は意表を突かれたような顔で頷いた。梓の反応は微妙だ。不思議そうに九段を窺っている。
「あの……九段さんは、とうもろこし嫌いですか?」
「いや、好きだぞ」
唐突な質問に面食らいながらも、九段は答えた。人参以外は何でも好きだ。
「そうですか……お菓子の話だからもっと喜んでくれると思ったのにな」
「ん? なんだ?」
梓がぶつぶつと小さな声で呟いたことが聞こえなくて、九段が聞き返すと、梓は首を振った。
「あ、いえ。それで、これからどうしましょうか?」
「お、おお、そうだ。あの店で少し休憩していかぬか?」
梓に聞かれ、九段は近くのカフェーを指差す。
活動写真を観たあとは、その内容についてカフェーで語り合うのです、というのが秋兵のアドバイスだ。手に手を取って、と言いかけたところで、千代から冷たい視線をもらって口を閉ざしていた。
ちらりと梓の手を見る。
恋人になってから、その手を取るのは以前より容易になった。それなのに、今、いざやろうとするとなんだか気恥ずかしくて、後でにしようと、その手から目を離した。
「九段さん、何にしますか?」
カフェーのメニューには、おいしそうな甘味の名前がたくさん並んでいた。
「ク――っ、紅茶とサンドウィッチにしよう」
思わず、欲望のまま、クリームソーダとあんみつにしかけて、どうにか踏みとどまる。とてもたいへん魅かれるが、今日は我慢だ。
「紅茶?」
梓がはっきりと驚いて聞き返してくる。
「クリームソーダありますよ?」
しかも、直接的に、メニューのクリームソーダを指差した。
梓の指の先の「クリームソーダ」という文字が輝いて見える。しかし、九段は心を強く持って、その誘惑を跳ねのけた。
「うっ……い、いいのだ。今日は、紅茶の気分なのだ」
「そうですか……。それじゃあ、私も同じものにします」
梓は完全には納得できていない顔ながらも頷き、九段に合わせてなのか、同じものに決める。
九段は慌ててメニューを掴んだ。
「ぬしは好きなものを頼むといい。ケーキもパフェもあるではないか」
いつもなら九段といっしょに梓も甘味を頼む。九段が頼まないからといって、梓も合わせることはない。梓には遠慮なく好きなものを食べてほしい。
九段がメニューを広げて勧めると、梓は、それには目もくれず、じっと九段を見つめてきた。
「ど、どうしたのだ?」
その目にたじろいで、九段は思わず少し身を引く。
「あの……九段さん。何か隠していませんか?」
梓は躊躇いながらも聞いてきた。
どきんと、心臓が跳ねる。
甘味が大好きな九段がそれを頼まないから不審に思っているのだろうが、梓の目はまるで心の中まで見ようとするかのようにまっすぐで、まさか、千代たちと色々計画したことがばれたのだろうか、今日の九段の目論見に気づかれてしまったのだろうかと、動揺して、心臓がばくばくと脈打った。それは別に隠し事ではない。格好がつかないから黙っていることだ。詭弁ではあるが、梓にもっと格好いいと思われたい――などと言うのは格好悪い。それに、どうしてそう思うのかを梓には知られたくなかった。
「そ、そんなことはないぞ」
九段はひどく動揺しながらも必死に首を振る。
「ほんとうに?」
「ああ、ほんとうに」
「そうですか……。ほんとうに甘いもの、いいんですね?」
「ああ」
もう一度念を押すように聞いて、九段が頷くと、あまり納得していない様子だったが、梓は頷いて給仕を呼んだ。
カフェーを出ると、ふたりは腹ごなしに浅草寺の方へぶらりと歩き出した。浅草といったら定番で、九段もお気に入りの道だ。だがしかし、その道を選んだことを、九段は後悔した。なぜならば、門前の通りには様々な屋台が並んでいて、そこかしこからいい匂いが漂い、九段を誘惑してくるからだ。どうして、ここがお気に入りの道だったのかすっかり失念していた。
(う、ぐぐぐ……我慢だ)
思う存分、屋台で買い食いをしたい。りんご飴も、わたがしも、ラムネだって飲みたい。しかし、今日は我慢だ。
「九段さん……」
九段の必死に堪える様子に、梓がまた物言いたげな視線を向ける。
そのときだった。前方で、ざわついた声が上がる。その穏やかではない雰囲気に、ふたりははっとそちらを見た。すでに、帝都の危機を救うという役目から放たれてはいるものの、ふたりとも騒ぎを放っておける性格ではない。
「どうしたんでしょうか」
「行ってみよう」
梓と顔を見合わせ、そちらに向かって走り出す。
「石でも投げたらいいんじゃないのか」
「それもきかねぇんだよ」
騒ぎの中心はすぐにわかった。人垣ができていて、ひとびとが一点に注目している。近づいていくと、土方のような男たちがなにやら物騒なことを話していた。
「あの、どうしたんですか?」
「ああ。ばあさんがそこで転んでな、荷物を落としたんだが、奥から出てきた野良犬があれでさ。ばあさんだけは助けられたんだが、荷物をどうしたもんかと」
梓が聞くと、彼らは親切に教えてくれた。男が指差す先では、大きな野良犬が、わんわんと興奮気味に吠えている。その足元には風呂敷包みがあった。そして、それを心配そうに見つめて震えているおばあさんもいた。彼女が包みの持ち主だろう。
「威嚇に石を投げても全然動じねえし、当てたら逆に襲ってきそうだろ?」
「確かにそうですね」
「なるほど。我が行こう。梓はここで待っておれ」
九段はその状況を把握するやいなや、荷物を拾いに行こうとした。
「九段さん!?」
「兄ちゃん、やめときな」
梓も驚いたが、男たちも口々に九段を止める。屈強な彼らが手をこまねいているのに、ほっそりとして見るからに上品な九段では怪我をするだけだと思ったのだろう。
「案ずるな。見ておれ」
九段は、そんな彼らに微笑む。
その常人にはない泰然さに、男たちは黙った。
「九段さん、気をつけて」
「ああ」
心配そうな梓に頷き、九段はゆっくりと犬に近づく。
すると、犬は警戒するように低く唸り、わんわんと吠え立てた。それはひどく獰猛な様子だったが、九段は怖いとは思わなかった。
「なにも怖いことはないぞ」
しゃがみこんで犬と目を合わせ、そう穏やかに話しかける。九段には、この犬の気が乱れているようには見えなかったのだ。無闇に襲いかかってくるようにも思えなかった。ひどく警戒しているだけだ。そう思って、ゆっくりと犬に近づき、落ち着くように説くと、犬は段々と大人しくなり、しまいには、くーんと甘えるように鳴いて、地面に伏せた。
「おお、すげえな!」
周りから、ひそやかながらも感嘆の声が上がる。あとは、荷物を取るだけだと、固唾を飲んで見守った。
「ふむ。いい子だな」
九段は犬を撫でる。犬は嬉しそうにしっぽを振った。さきほどまで威嚇していた犬とは思えないかわいらしさだ。
そのとき、その野良犬が塞いでいた暗い路地の奥から、ちいさいものがとことこと出てきた。
子犬だ。
「クーン?」
びっくりしたようなつぶらな瞳が、人々に向けられる。
「か、かわいい……!」
観衆たちはみんな、一瞬にして心を射とめられ、子犬にめろめろになった。
「おお、おぬしは心配していたのだな。大丈夫だ、みな、おぬしらを害さぬぞ」
九段は、母犬に言って聞かせて、そばに落ちていた風呂敷包みを拾う。
「これはもらうぞ」
そうして立ち上がっても、犬は騒がなかった。
子犬の背をぺろぺろと舐めると、揃って路地の奥へと消えていく。
「これでよいか?」
「ああ、ありがとうございます! 息子へのお土産なんです! 本当に良かった」
「なんの。礼には及ばぬ」
九段から包みを受け取ったおばあさんは、感激して何度も頭を下げた。
そのおばあさんに、九段が微笑んだとき、わっと周りから歓声が上がった。
「いやあ、見かけによらず豪胆な兄ちゃんだな!」
「よっ! かっこいいね~! 兄ちゃん!」
男たちは九段を口々にほめそやし、まるでお祭り騒ぎだ。
「お、おい、やめぬか」
みんなにぽんぽんと肩を叩かれ、もみくちゃにされる中で、九段は、梓は大丈夫かとその姿を探す。
「お嬢ちゃんのツレかい? いい男じゃねえか」
すると、梓も、観衆に囲まれて、ひやかされるように、肘で突かれたりなどされていた。
「っ! 梓に触るでない」
九段は慌てて梓に駆け寄り、その腕を引いて自分のもとへと引き寄せる。「ヒュー! 熱いね~!」
そんな九段に気を悪くした様子もなく、梓をつついていた男をはじめとして、周りがさらに囃し立てた。
「く、九段さん……」
梓が顔を赤くして俯くのを見て、九段は、はっと我に返る。男たちに他意はないとわかるものの、触れられるのがすごく嫌だった。体が勝手に動いていた。そして、公衆の面前で、しかも人々の注目を集めている真っ最中だったというのに、今、梓を抱きしめている。
「す、すまぬ! こ、これは、だな――」
九段は慌ててぱっと梓を離した。
「いえ、いいんです。けど……?」
離された梓は少し不思議そうな顔をして、再び九段の胸に顔を近づけてくる。
「見せつけるね~!」
「あっ、違くて! すみません!」
それを見て、男たちが喜ぶ声に、梓ははっと離れていった。
(ぬう……惜しい)
現金な話だが、梓が自ら近づいてきてくれたところだったのに余計な真似をと、九段は恨めしく思う。
「兄ちゃん、これ持っていきな!」
そんな九段の手に、ほかほかの焼きまんじゅうが渡された。
「なぬ?」
「ほら、お嬢ちゃんも」
梓の手にも同じものがのせられる。
「ああ、こっちも持っていきなよ!」
そのおまんじゅうをきっかけに、露店の主たちが九段を称えて、次々と食べ物をふたりに寄越し出す。
「おお、すまない」
「わ、あ、ありがとうございます」
そうして、瞬く間にふたりの手は色んな物で埋まった。
「すごいことになってしまいましたね」
「ああ」
「ハイカラヤに行きましょうか」
「そうだな」
浅草にいたら、物をもらってばかりになってしまうと、ふたりは浅草を脱出して、ハイカラヤに向かった。
「九段さん、犬とお話できるんですか?」
その道すがら、梓が興味津々という顔で聞いてきた。動物と会話ができるのでは――という期待が透けて見えて、九段は申し訳なく思う。
「いや、言葉は通じぬぞ」
「そ、そうですよね」
「だが、気を読むことはできる。さきほどの犬も、こちらに傷つけるつもりがないことをわかってくれたのだろう」
「九段さんの優しさが、あの犬にも伝わったんですね。九段さんと話していると、いつでも優しい気持ちになれますから。それは、犬も同じなんですね」
「そ、そうか?」
自分と話すことはできないので、いまいちピンとこない九段に、梓はとても嬉しそうに笑う。
「はい。私の大好きな九段さんです」
「あ、梓……!」
梓がとびきりの笑顔でそんなことを言うので、九段は激しく胸がときめいて、かーっと顔が赤くなってしまった。
「わ、我もぬしのことが好きだぞ」
「はい」
袂で顔を隠しながらお返しを告げると、梓も嬉しそうに頷いてくれる。
手がふさがっているから、梓の手を取れなくて残念だ。早くハイカラヤに行こうと、ほんの少し、歩みを速めた。
ハイカラヤに行くと、カウンターの中に里谷村雨がいた。
「いらっしゃい。――て、どうしたんだ、その大荷物は」
ふたりが腕に抱える荷物に、村雨は訝しそうに聞いてくる。
「浅草でもらったんです」
「浅草? お宅ら、デートじゃないのか?」
「デートですよ」
「いったい何をしてるんだか」
それだけの会話とその荷物で、まるで浅草で起きたことがわかったかのように、村雨は苦笑した。
「村雨。おぬしはどうしてそこにいるのだ」
「店番だよ。マスターが出かけててな。今のメニューはコーヒーだけだが、お宅らに出すものくらいなら用意するぞ」
「ありがとうございます」
ふたりはカウンターの隅に荷物を置かせてもらって、カウンターの席に座る。
「九段は、クリームソーダでいいか?」
村雨が、グラスを手に取って聞いた。クリームソーダはハイカラヤのメニューにはない、いわゆる裏メニューだ。ほとんど九段専用のメニューだが、いつでもちゃんと用意してくれていた。
「う……いや、コーヒーを頼む」
村雨に頷きそうになって、九段はぶんぶんと頭を振る。
「えっ、どうした、九段」
「九段さん……」
村雨が驚きの声を上げる前で、梓が眉根を寄せた。
「やっぱり、九段さん、今日、具合が悪いでしょう?」
そのうえ、まるで問い詰めるような強い口調で、そんなことを言ってくるので、九段はびっくりした。
「な……そんなことはないぞ」
九段はぶんぶんと首を横に振って否定する。それは本当に誤解だ。無用の心配だ。九段はすこぶる元気だった。
しかし、梓は納得していない様子で、じっと九段を見つめてきた。
「だって、今日、甘いものは食べないし、上の空だったりするし、デートが楽しくないのかなと思ったりもしたんですけど……」
梓の悲しそうな顔に、九段は声を張り上げた。
「そ、そんなことありえぬ! 我がこの日をどれだけ心待ちにしていたことか」
「それじゃあ、やっぱり、体調が悪いんですよね。デートを中止にして早く帰ればよかった」
「違う! 違うぞ、梓」
「だったら、どうして甘いものを食べないんですか?」
梓に問われて、九段は言葉に詰まる。それはあまり説明ししたくない。だが、そんなことを真剣に問う梓に、今日一日、どれほど不安にさせたのだろうと思い、それ以上黙っていることはできなかった。
「実は……梓にもっと好いてもらいたくてな」
「え?」
九段が決まり悪く話し出すと、梓はきょとんと首を傾げた。
「ずっと――梓を想うだけでよかったのに、最近の我は、欲ばりになってしまったのだ。もっと梓に好いてもらいたい。誰よりも我のことを想ってもらいたい。そのために、我がもっとかっこよくならねば――と、そう思って、今日は、かっこいい年上の男の振る舞いをしていたのだ。大人の男は、甘味を無闇矢鱈に食べたりしないと教えてもらった」
心に生まれた欲は、梓を想うごとに大きくなって、どこまでも梓を求めてやまない。だから、梓がそれでもっと好きになってくれるのなら、甘いものを断つことだってできる。九段がなによりも好きなのは、梓だから。
「そ、そんな――」
梓は驚いたように言葉を失った。目を瞬かせ、九段を見つめる。それから、ますます九段を真剣に見つめて言った。
「あ、甘いものを好きなかっこいい人だっています!」
「なぬ……!?」
梓の言葉に、九段は目を剥く。
「さっき、おばあさんを助けたとき、みんな、九段さんのことかっこいいって言ってたじゃないですか。私もそう思いました。なんて素敵な人なんだろうって。このかっこいい人が私の恋人ですって思ってました」
「梓……」
梓は恥ずかしそうに顔を赤らめながらも、真剣に訴えてくる。
「『かっこいい振る舞い』なんてしなくても、九段さんはいつも通りで、甘いものが好きなままで、十分かっこいいです。私は、甘いものが大好きな、優しくてかっこいい九段さんが好きなんです。いつも、いっしょに甘いものを食べてくれて、それがとても幸せだったのに、今日は、いっしょに食べてくれないから、すごく寂しかったです。それに、私といっしょにいても楽しくないのかなって心配でした」
「あ、梓……!」
九段は思わず梓の手をとっていた。
自分の不要な努力で、梓に悲しい思いをさせていたことが申し訳ない。そして、なにより、自分のことをそのまま好きでいてくれる梓の気持ちが嬉しかった。
「すまない、梓。我が悪かった。もうこのようなことはせぬ」
「はい」
九段が謝ると、梓は嬉しそうに笑ってくれた。
その笑顔に、胸があたたかくなる。
「で、では、甘味をともに食べようぞ?」
「はい。今日ずっと食べてこなかった分、たくさん頼んで、わけっこしましょう?」
「ああ!」
梓の素敵な提案に胸を躍らせ、九段は大きく頷いた。
「村雨、注文するぞ!」
「ああ。でもその前に――おい、入ってきたらどうだい」
そして、九段が意気揚々と村雨に注文しようとすると、村雨はそれを制して、入り口の方へと声をかけた。
それに応じるようにドアが開き、ぞろぞろと千代たちが中に入ってくる。「千代? 秋兵さん、有馬さん?」
「おお、みな、いたのか」
どうしてこの三人がと驚く梓の隣で、九段は晴れやかな顔で迎えた。
「ごめんなさい、梓。九段に大人の男らしくしなさいって、私が言ったの。いつも甘味甘味って言っているから、もう少し男らしくした方がいいと思って。今日いちにち、心配させてしまったわね」
開口一番、千代は申し訳なさそうに謝った。
「千代。そんな。謝らないで」
梓は慌てて首を振る。
千代は九段のことを心から想っている。今日のこともからかったわけではなく、真剣にアドバイスしてくれてのことだから、何も謝ることはない。
「梓くんの、九段殿への深い愛情に胸が打たれました」
「ううむ、よくわからんが、ふたりはお似合いだと思うし、丸く収まったということか?」
胸に手を当てて感動を伝える秋兵の隣で、有馬はまだ首を傾げている。
「そうね」
「はい」
千代と梓は、そんな有馬に頷いてみせた。
ハイカラヤで、千代たちともいっしょにみんなで甘味を食べた後、進さんと会うのだという千代とは別れて、九段と梓はふたりで旧軍邸に戻った。
自室に下がると、九段はすぐにいつもの服に着替えた。やはりこちらの方がしっくりくる。
「ふう」
そうして一息ついたとき、部屋のドアがノックされ、「九段さん?」と梓の声がかかった。
「梓か? 入ってよいぞ」
九段が応じると、ドアを開けて、梓が入ってくる。
「あ……」
梓は、九段を見るなり、目を輝かせた。
「あの、九段さん、ちょっとくっついてもいいですか?」
「ど、どうしたのだ、いきなり」
突然の梓のお願いに、九段はどぎどきした。しかし、梓はなぜかひどく真剣だった。
「駄目ですか?」
「い、いや、駄目ではないぞ。ほら――」
「失礼します」
九段が手を広げると、梓はそっと体を寄せ、顔を九段の胸につけた。
「――はあ」
なにやら感慨深げに息を吐く梓に、九段は戸惑うばかりだ。
「どうしたのだ、梓」
「いつもの九段さんの香りです」
「え?」
「今日、この香りがしなくて、すごく違和感があって、知らないひとみたいで寂しかったんです。この香り、九段さんだなあって落ち着きます」
梓はもう一度顔を寄せて満足げにする。
「あ、梓……」
あまりの愛らしさに九段が固まっていると、梓は突然はっと体を起こした。「あっ、すみません、はしたなかったですね!」
「いや、いいのだ!」
今さらながら自分のしていることに気づいて、顔を真っ赤にして離れてしまう梓を、九段は慌てて引き止める。ここは、他に誰もいない九段の部屋だ。思う存分触れ合っていい。
「ほら、もっとぎゅっとしてよいぞ」
九段がそっと梓を抱き寄せると、梓は少し躊躇った後、九段の背に腕を回して、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「ふふ」
とてもどきどきして、とても幸せだ。
九段は思わず笑みをこぼした。
「あ、あの……九段さんもぎゅっとしてください」
すると、梓がほんのすこし顔を上げて、小さな声でねだる。
「う、うむ! ぬしの望むままに」
そのかわいらしいお願いに胸をときめかせ、九段も梓をぎゅっと抱きしめた。そうすると、梓に抱きしめられたときと同じくらい、心が満ちて幸せな気持ちになる。
「……とても幸せです」
「我もだ」
同じ想いを分かち合って、ふたりはそっと笑い合った。
おわり
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