サンプル:ごめんねコロッケ(遙か6・有梓)
2017.5.21 ラヴ♥コレクション2017 in Summer にて発行
帝都を襲った大いなる災厄を払った夏を経て、共に戦った有馬一ら元帝国軍の者たちと、軍と対立していたダリウスら鬼の一族たちとの間には良好な友好関係が結ばれていた。だから、双方が街中でばったり出会っても、以前のように、即座に武器に手を伸ばすような緊張が走ることもなくなった、はずだった。
日比谷公園近くの路上、芝の方から巡回してきたふたりの神子を伴った有馬たちと、銀座での買い物を終えて蠱惑の森に戻る途中だったルードハーネたちとがばったり出会い、そして今、張りつめた空気の中、凍りついていた。
それというのも、有馬たちの巡回の終点がハイカラヤと聞いて、それならば共に行っていっしょに休憩をしようという話がまとまるやいなや、蠱惑の森側からコハクがぴょこんと飛び出して、
「梓さん、手をつないでいこう?」
と、黒龍の神子、高塚梓に己の手を差し出したからだ。
それは、コハクにしかできない絶妙なタイミングだった。屈託のない笑顔に、初夏のような軽やかさ、とても無邪気で嫌味がないその振る舞いは、傍から見ていると、子どものように微笑ましい。しかし、和やかだった場の空気は一瞬にして凍りついた。
元帝国軍側――有馬は首を傾げ、片霧秋兵は意表を突かれて、萩尾九段と駒野千代は目を丸くして、鬼側――ルードは息を飲み、北条政虎は欠伸をしている。一部例外はあるものの、武器を取らんとするのとはまた違った類の緊張感が、その狭くもなく広くもない路上に広がっていた。
「えっ、あ、うん、いいよ」
梓も他の者たち同様びっくりしたような顔をしたが、それも一瞬のことで、すぐに笑顔で頷く。コハクの人懐っこい笑顔はよく懐いてくれる大型犬に似て、同世代の異性ということをあまり意識させず、手を繋ぐことに気恥ずかしさが湧いてこないのだ。
「やったー!」
それはそれで問題もあるが、ひとまず女神様の手を取ることに成功したことを喜び、コハクは飛び上がった後、そのまま梓に抱きつこうとした。「っ!」
その流れるようなスキンシップに、今度は有馬も息を飲む。
「コハク!」
「うわあっ」
そんな中、コハクの行動に慣れているルードが素早く動いて、その襟首を掴んで引き止めた。
「みだりに女性に抱きつくのはやめなさい」
「みだりにじゃないよ! 梓さんだからだよ。梓さんはおれの女神様だもの!」
ルードにたしなめられてもコハクは笑顔で答える。ルードの眉間にはますます皺が寄り、その目はつり上がった。
「それは抱きついていい理由になりません!」
銀座の方まで届くような一喝に、さすがのコハクもたじろいで一歩下がる。
「ど、どうしたの? ルードくん。カリカリして」
「こいつはいつもカリカリしてるぜ?」
「虎、今日の夕飯一品マイナス」
政虎がニヤニヤ笑いながらチャチャを入れると、ルードは即座に低い声で切り返した。すばらしい反応速度だ。
「あぁ? 待てや、くそがきィ!」
「わかった!」
そんなルードに政虎が象をも殺しそうな勢いで凄んで、知らない人間が見たら、命の取り合いが始まるのではないかというほど剣呑な空気が漂う中、コハクが嬉しそうに声を上げて手を叩いた。ルードも政虎も毒気を抜かれてコハクに目を向ける。
「ルードくんも梓さんと手をつなぎたいんでしょう?」
「は、い……?」
朗らかな笑顔を向けられたルードは大いに戸惑って言葉を失った。
「大丈夫だよ。おれは梓さんの右手とつなぐから、ルードくんは梓さんの左手とつなぐといいよ! あ、でもそれだと歩きづらい? 腕を組んだ方がいいかな?」
口をぱくぱくさせているルードを置いてけぼりにして、コハクはひとり真剣に三人で歩く方法を考え始める。確かに、三人ならば手をつなぐよりも腕を組んだ方が歩きやすいだろうが、問題はそこではない。
「うっ、腕!? なっ……あなたはなにを言って……っ」
しかし、いつもは冷静沈着なルードも、梓と腕を組む姿を想像してしまったらすっかり動揺して、わたわたと梓に視線を流した。すると、ちょうど梓もルードに目を向けたところで、ふたりの視線はばっちりとぶつかる。その途端、ルードの頬に赤みが差し、それを感じ取ったルードは慌てて顔を背けて、フードを目深にかぶった。
ルードの動揺と恥じらいは梓にも伝わり、梓もなんだか恥ずかしくなって目を伏せる。当人たちだけでなく、場になんともいえない甘酸っぱい空気が漂った。
「では、梓くん、お手をどうぞ」
「え?」
そのレモンのような空気をぶち破ったのは秋兵だった。
秋兵は、すっと梓の前に立ち、その手を差し出した。突然目の前に現れた大きな手に戸惑って、梓は目を瞬かせる。解答を求めて顔を上げると、コハクに負けず劣らずにこやかな秋兵の笑顔にぶつかって、困惑は深まるばかりだった。
「ちょ、ちょっと秋兵さん! なにしてるの!」
軽やかに抜け駆けをする秋兵に慌てて、コハクが梓と秋兵の間に割って入る。そんなコハクにも、秋兵は優雅な笑みを向けた。
「ルードくんが辞退されたようなので、姫君の左手をあずかる栄誉をえようと思いまして」
「秋兵、話をややこしくするな」
ルードたちとばったり会ってからの展開についていけていなかった有馬は、秋兵のいつもの軽口の段になって、ようやく我を取り戻し、たしなめることができた。
有馬にしてみたら、なぜ手を取るのかからわからない。ハイカラヤまでは梓も慣れているし、比較的整備されて歩きやすい道だ。手を引くほどに危険ではない。もしそんな道であれば、有馬が先に手を打つ。つまり今回は不要だ。――そう、有馬は真摯に考えていた。多くの者が息を吸うくらい自然に備え身につけている行動原理を、有馬はまるでわかっていないのだ。
「ハイカラヤまで行くだけだ。手を取る必要はないだろう。ひとりで歩けるな、高塚」
だから、有馬はどこまでも真面目に、コハクと秋兵に挟まれている梓に声をかける。
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